ジェネラティブ・アート Processingによる実践ガイド
マット・ピアソン, 2012年
久保田晃弘 監訳, 沖啓介 訳, 2014年, BNN出版
名著。2010年あたりまでのGenArtの主要トピックをうまく説明している。理論過多にならず作者のお気持ち表明的な文体。
秩序とカオス
さらに、もし私たちが自分の作品をアートだと宣言するのなら、感情と美学を探求しようとすることが当然必要とされるのではないでしょうか? 私たちは、手順、論理、数学だけを使って、共感を生む作品を作ることができるものでしょうか? コンピュータに頼ってアート作品を作り、見る人たちと人間レベルで結びつけようとすることは、無数の猿たちが無数のシンセサイザーでパーフェクトなポップソングを書くのも同然です。
ここに挑戦があります。
秩序とカオス、単純さと複雑さ、機械的なものと有機的なものは必ずしもスペクトルの両端にありません。それらは共生的で、からみあっているのです。これら2つの間で私たちが進む進路は、ナイフの刃先のようなものです。私たちの存在そのものは、エントロピーと秩序の間、はむかう乱気流、混沌とした環境、助けなしには共存できない自然界、最も純粋な単純さ、動物としての私たちに必要な喪失感の中をさまよっています。
幸いなことに、誰も私たちに選択を迫りません。ジェネラティブ・アートの目的は―もしそれが目的を持っているとしたら―、何かを美しくすることです。私たちは、秩序から始めてカオスを目指し、どちらかの方向に迷い込まないように気をつけながら、機械的な使って有機的なものを作ることを試みます。そしてもし私たちが達人になれたら、自分自身をプログラマーとアーティストの両者であるとみなすことができるでしょう。
詩としてのプログラミング
プログラミングの歴史は、常により優れて洗練された組織化へと向かってきました。コンピュータ科学者デザインパターンについて話をするとき、それらは美学を意味してはいません。(中略) 私たちがジェネラティブ・アートでやっているのは、この流れに逆らって泳ぐことと、何をするにも正しい方法とか間違った方法というものはないということです。
1. ジェネラティブ・アート:理論と実践
この何年か、フィリップ・ガランター(アーティストでテキサスA&M大学の教授)の2003年の論文「ジェネラティブ・アートとは何か? 芸術理論の文脈としての複雑系理論」が、たびたび引き合いに出されてきました。(中略)
これは正確かつ記述的で、正しい言葉を使った長い文章であるけれど、簡単に言えば、これでは十分ではありません。ジェネラティブ・アートの本質を捉えているとは思えません。それはもっと不明瞭なものです。
私たちがこのトピックに踏み入る際には注意しなければなりません。なぜなら、放っておいたほうがいい議論である「アートとは何か?」という定義づけを、どうやってでも避けたいですから。アートの概念は非常に脆くて、曖昧で、私たちがつっつきまわすと消えてしまうようなものです。